日本の3Dプリンターの研究を牽引してきた田中浩也先生(慶應義塾大学SFC環境情報学部教授)にお話を伺い、田中研究室卒業生でもあるDMM.makeのスタッフが共に3Dプリンターのこれまでとこれからを考えていきます。
第2回目は2020年代、コロナ禍前後の時代と3Dプリンターが果たした役割についてお話を聞きました。
プロフィール:田中浩也先生
環境情報学部 教授/博士(工学) デザイン工学
1975年 北海道札幌市生まれのデザインエンジニア。専門分野は、デジタルファブリケーション、3D/4Dプリンティング、環境メタマテリアル。モットーは「技術と社会の両面から研究すること」。
慶應義塾大学KGRI 環デザイン&デジタル マニュファクチャリング創造センターセンター長
文部科学省COI-NEXT (2023-)「リスペクトでつながる「共生アップサイクル社会」共創拠点」研究リーダー
東京2020オリンピック・パラリンピックでは、世界初のリサイクル3Dプリントによる表彰台制作の設計統括を務めた。
予測していた未来が訪れた…? コロナ禍のフェイスシールド作り
──前回は3Dプリンターの歴史の一側面を伺ってきましたが、ここからは「社会の変化と3Dプリンターがどんな役割を果たしてきたか?」についてお聞きしようと思います。
2019年末から新型コロナウイルスの流行が始まり、世の中は大きく変化しましたね。3Dプリント業界にも何かインパクトはあったのでしょうか?
日本だけではなく、世界中で3Dプリンター保有者がコロナ対応に必要な物をプリントし、地域の病院などに届ける運動が生じました。
──DMM.makeでも当時急ピッチでフェイスシールドを製造し、医療機関へ無償提供をおこないました。
一つは、「ものづくりのデータがオープンになり、世界中の人々が家などの生活圏に近いところで製造をおこなう」というファブラボが掲げていた理想が、一時的ですがコロナ有事のなか、具現化されました。
──こちらのアニメーションは13年前に作られたものですが、「データさえあればどこでも(宇宙でも!)3Dプリンティングができる」といった未来も思い描かれていましたね。
もう一つは、そのことを契機として「より人件費や維持費の安い海外の工場で安価に作って国内に輸送して使う」という時代の流れが見直されたことでしょう。
「サプライチェーンが途切れた時、どういった生産体制が望ましいのか?」が問われたと言えます。安全保障の観点からも、資源や生産技術の自律化・自前化が必要という問題意識は、現在にまでつながっています。
──10年前から田中先生が「こういう未来を描くんだ」とおっしゃっていたことが現実となり、胸が熱くなりました。
「フェイスシールドを製造しよう」となったとき、平時であれば金型を作って、数か月後に生産ができるようになります。
しかし、医療現場で今すぐ必要とされているのに、金型に起こして数ヶ月も待っていられない状況ですよね?
3Dプリンターであれば、翌日にはつくり始められます。
しかもその3Dデータは世界中の人がアイデアを出しあい、オープンにアクセスができ、どんどんとアップデートされていきました。
しかもその3Dデータは世界中の人がアイデアを出しあい、オープンにアクセスができ、どんどんとアップデートされていきました。われわれはこのときの活動の実態を事後アンケートにより調査して、論文にまとめています。
──当時はFacebookのグループで「こんな3Dデータができたので使ってください!」「私は医師ですが、病院に足りていないので●個お願いします」といったやり取りも盛んにおこなわれていました。
一過性ではなくより持続可能なものづくりのあり方については後ほど詳しく伺っていこうと思います。
参考:GitHub「DOYO-model」
神奈川大学「飛沫感染を防ぐフェイスシールドを3Dプリンタで。道用 大介 准教授(経営学部)が3Dプリンタでまとめ作りできるデータを公開しました/お知らせ」
TOKYO2020「みんなの表彰台プロジェクト」で証明したこと
──そして、田中浩也先生といえば東京五輪の表彰台を3Dプリンターで製造したことも記憶に新しいですね。
TOKYO2020が決定した時から「オリンピックに何らかの形で関わりたい」と仰っていたことが記憶に残っています。
2010年のワールドカップ・南アフリカ大会で応援アイテムとしてブブゼラが流行りましたよね?東京の招致が決定したときは「誰もが楽しめるものづくりができたら…」と考えていて、当時は楽器などを3Dプリントするイメージを持っていましたが、結局、無観客開催だったのでそれはできなかったですね。
でもまさか、表彰台を3Dプリントすることになるとは思いませんでした。
──このプロジェクトについて詳しく教えていただけますか?
大会後、表彰台はすべてメダリストの出身校や協力自治体に全数譲渡されており、制作過程で生まれたロス材は、再度粉砕してフェイスシールドに作り変え、約1万個を聾学校へ寄贈したりもしています。コロナで大会が1年延期になったので、そのあいだにも回収した資源の有効な利用先のことを毎日考えていました。
──プロジェクトを進めるうえで大変だったことは何だったでしょうか?
実は最初、開催までたった半年しか準備期間がない中で「表彰台を作って欲しい」と依頼がありました。最初は何台つくればいいのかも、はっきりしていませんでした。
作業を進めていくうち、約100台の表彰台が必要であることが分かり、そのために7,000~8,000枚の側面パネルを3Dプリントする必要があることが見えてきました。
そこで大型3Dプリンター開発で何年もご一緒してきたエス.ラボさんに特注の連結3Dプリンターを開発してもらい、同時に同じものを12個プリントできるようにしてもらいました。1枚当たり60分でつくれれば、12台連動のこのマシーンで回し続ければ、なんとかギリギリ間に合うと計算ができました。
──ある意味、大型かつ最終製品の大量生産が3Dプリントできることを証明しましたね。
フェイスシールドも表彰台も「“たった1つの物を造りたい”を叶える」と言われ続けていた3Dプリンターが、実は「量産にもこのくらいまで対応できる」ということを証明し、認識された出来事となったと思います。
やっと「プロトタイピング」でも「ファブリケーション」でもなく、「マニュファクチャリング」の域に入ったと思いました。
「3Dプリンター製だから」ではなく、当たり前の生産手段として
──改めて2020年代、3Dプリンターと日本社会はどのようなフェーズにあると言えるでしょうか?
むしろそれによってどんな機能や価値が実現されているかが前面にあるべきだし、その意味で、3Dプリンターは手段に過ぎないということは強く認識すべきでしょう。
今は3Dプリンターがやってきた時代から一歩進んで、3Dプリンターが当たり前の生産手段として溶け込んでおり、単に「新しいから」というイメージ優先ではない議論が必要とされてといると思います。
──ビジネスシーンにおいても、「より効率的に、より低コストで生産する手段として3Dプリントを使えないか?」というご相談が増えているのが実際です。おっしゃる通り当たり前の生産手段の一つとなってきていると感じますね。
次回は「3Dプリンターと人づくり」についてお伺いしていきます。